偏頭痛


風邪の症状と肩凝りの弊害という感じで続行不能になり、金曜日は仕事を早退、金曜日の夜から養生しているんですが、どうも風邪が治らない、何と言うか、最も身近な人間がよく判らない常態で精神的にも余り余裕が無い状態、明日(日付的には今日)はこの状態で已む無く薬局に向かわねばなりません。



あーあ、まったく、人間なんて本当に根本が無いとここまで自欲的にしか動けないのかと思うと実にイラッと来ます。



もっともっと生活や精神に余裕を持たせるためには、やっぱりここにいちゃあいかん気がしていますが、だからと言って私には向かう場所なんてそもそも全く無い、まるで気分は中学生の時みたいで少し鬱陶しいですねw



不思議なもんだ、普段私をギリギリで救うのは新垣さんの笑顔と舞波っちの笑顔なのに、ギリギリを超えて苦しくなったとき最も救われるのは、梨沙子の笑顔だったりする、多分、私が新垣さんに対して持っているイメージと舞波っちに対して持ってるイメージが似てるのかな、まるで相反するんだけど、私の推し3人のうち新垣さんと舞波っちはベクトルカラーが近いんです、ただ一人、梨沙子が全く違う方向にあるから、お陰様なのかも知れないです。



私には、やることが山ほどある、1日が100時間でも200時間でも、まったく追いつかないくらい、本当に沢山、やんなくちゃいけないことでいっぱいなのに、脳がうまく働かない、まるで、刺激を与えられずにただ育つミントの葉のように、その存在が、光の無い時は誰にも判らない、そんな感じ。



時間は買うものだ、というけれど、結局人間に与えられた時間は実に少なく、その全体時間は誕生から死去までで決まっており、厳密には時間を買うのではなく、時間をこじ開けているだけな訳で、精神衛生を保ちながら理想に近いクリエイティブな時間を過ごそうとすると、人生の半分が休息に用いられるのは仕方ないとしても、その残りのうち10%でも有効に使われれば幸福と言えるのかも知れない。



あと1年も生きれば、人生の始まりから30年の時間を使ったことになるけど、ここんところのおおよそ5年間で取り戻せた精神衛生状態はとっても貴重だと言えます、余計に、それ以前のおおよそ25年間って一体何だったんだろう、と思う。



普通の家庭に育った訳じゃないし、普通の10代だった訳でもなく、正直なところ、あんな狂った25年間を過ごしたクセによくここまで戻ってこれたとも思います。



どんな些細なことでも、人間なんて絶対に信じてはいけない、自分を含めて、人間を信じてはいけない、だから、あたかも人間に見える生き物全てを『悪魔』と位置づけて、その上で自分を『ゴミ』より高めることはしなかった25年間、その積み重ねさえ拭い去った力って一体何だったのか、結局、そうやって何も信じないで生きようとした、死んで楽になる資格が無いから生きて苦しんで底辺を目指した時代を一気に破壊したのは、『芝居的孤独』との決別だったのかもしれない。



孤独っていうのは、周りに人が居ることを意識することで成立するから、結局のところ大勢の内側で起こることなんだけど、その大勢の外側からその『大勢』を眺めていたら、その外側にこそ何も無いって思って、大勢の外側で後ろを振り向くと、本当に自分が孤独で一人ぼっちで、その存在自体、誰一人として証明できないっていう、まるで『孤独との一騎討ち』みたいで、誰も私を見てないからこそ、心置きなく孤独と勝負できる、そのように感じてから、『自分なんて孤独なんだー!』とかいう芝居ごっこから決別したんでしょう。



『自分はこういう生き物です』って胸を張って言える人ってそうは居ないし、それを語ることで法律をまたいでしまうことだってある、でも、人間にはきっと失ってはいけない倫理があるハズだし、それを失いつつあるからこそ、『自分はこういう生き物です』って言うことを制限し、正しく生きられない人で世界はもうじき埋め尽くされるのだと、そう感じます。



ガッチガチの仮面で自由を失った人々が何かとんでもないものを振りかざして、その結果世界が終わるときに、自分の横にはきっと誰も居なくて、でも、その終幕を祝うべき人は居て、でも、その大勢は決して後ろを振り向かず、世界が終わった後で、横に誰も居ない人々の事を思い出すことも無く、通り過ぎだ時間に胸を撫で下ろし、ぼんやりと余生を引き伸ばすことでしょう。



やっぱり人間なんてクソッタレです、でも人間でよかったと思うのはどうしてだろう?



きっと、安楽な生活に魅力を感じないからでしょうか、それとも、既に安楽な生活だからでしょうか、いかにも安楽とは思えないけど、それを実証することなんて出来ない、人間にはそもそも基本スペックとして『個人主義』がセットアップされてるから、全体主義的な考えに没頭できないようになっており、その生涯のおしまいの瞬間に『あーよかった』と思えるようにしたいから、何か見るからにポジティブなこと、まるで意味がありそうなことをしようとしたり、突拍子も無いことに意味をくっつけて生涯を終える人もいるけど、結局人間は自分の生涯のおしまいの瞬間を個人的に幸福な気分で迎えたいからそうしたいのかも知れません。



『勇気』とかもその一つだと思います。



最近は『勇気』と『正義』が混同されてるような気がしています、全く相反するのに、混同されているように感じます。



正義でも不義でも、それを貫くのが勇気な訳で、決断に至る上で最も個人的レベルで且つ周囲からも評価されそうなレベルの出来事を『勇気』って呼んで然るべきでしょう。



今の日本の行政には、残念ながら『正義』と『不義』はありますが、『勇気』がありません。



アメリカの行政には『不義』を貫く『勇気』があるし、過去の日本にも『不義』を貫く『勇気』はありました。



ただ、正義も不義も、結局は倫理ではなく、その当事者や評価をするべき人々の主観的レベルで判断されるものになってきていて、実際の正義というものはどこか地中の奥深くに生き埋めにされているかのように感じます。



でも、不義でガッポリな人々はとことん不義だからよーく判ってます、正義が地中で苦しんでその姿を怒りや恐怖に変えたときに、正義と不義が入れ替わるってことも。



『不義は潰すべし』と思ってる方は、恐らく、不義を潰して自分が不義になるその瞬間を想定していないでしょう。



不義が消えない理由はそこにあるんじゃないでしょうかね、全く、人間は愚かで心底クソッタレで仕方無いです。



でも、最近は私もその人間のような気がしています、これはきっと進歩なんでしょう、ミジンコの老廃物より上になれそうな気がしてきている自分はきっと、進歩しているんでしょう、そう思いたいダケかも知れないけどw



人間を憎悪したとき、一番憎悪の対象となっているのは、自分自身。



世界は、全ての人を中心に回っています。



だから、世界はいつでも衝突し、いつでも同調し、いつでも離れたりくっついたりします。



そんな風景を、どこか遠くからゆっくりと眺めながら、ゴロゴロしてたいです。



でも当面は、風邪を治さないといけません、この頭痛と決別しないと、どうにもなりません。








あーあ、やっぱり人間はクソッタレでいいやw