結局、Berryz工房っていう『ハコ』に心底興味のある人って、個々に対しては比較的フラットか、ハコと個々を全く切り離して捉えてるか、そのどちらかかなーと思いますが、Berryz工房に携わってきた自分の歴史をちょっと遠目から見てみると、面白いことに気付いたのです。
Berryz工房っていうユニットが始まったとき、自分は菅谷梨沙子がBerryz工房に入ったから、積極的に推す現場が出来たのでそこに加わったのですが、一番最初のあななしのイベントのとき、私欲丸出しのヲタに対して憤りを感じたコトがありました。
そのときの考えって、『梨沙子はコイツらみたいなのんのタメに頑張ってるんじゃない』ではなく、『彼女らはコイツらみたいなのんのタメに頑張ってるんじゃない』だったというコト。
まあ、彼女らがどこに向けて頑張ってるのかはその当時の自分のエゴい考えで脳内してた部分だと思うのですが、その時から既に考えが『彼女ら』だったんだなー、とw
そもそも自分は松浦亜弥さんの後DDを経てモーニング娘。へと移行し、今の娘。とベリの二本柱となった訳ですが、自分ではそんなに意識はしてなかったけど、写真の買い方に於いて、Berryz工房で何があってもできるだけ欠かさないように写真を買ってたのは梨沙子と舞波でしたが、今はもう手元には無いですが、何か気に入ったら迷わずに他のメンバーの写真も買っていました。
まあ、その当時は実にDDでしたから、娘。でもベリでも非ベリでも結構構わずに色んなメンバーの写真を買っていましたが、Berryz工房のメンバーの写真って娘。とかの買い方と違ったようで、そこらへんで出てくるのが、『方向性』っていう言葉になってくるんだけど、多分、自分がヲタになって初めて発足した新たなユニットで、その比較的初めからずーっと推せる状態だったというコトが、共に歩んでいない歴史のあるモーニング娘。と、歴史の無いBerryz工房との大きな差で、そもそもそのラインに立つヲタは始点が近かったハズなんだけど、その始点に立つ、というコトを最初っから実に重たく捉えてた様で、全く何も無いようなトコロに一体何が出てくるのかなんてものも双方共に全く見えない現場に双方共に立たされて、どちらにも無茶な時間が長く課せられたな、と。
Berryz工房が歩んだ道がBerryz工房を作ったのだから、Berryz工房が歩みをどうしても進められなくなった時に、歩調をそろえてあげられなかった人々、その出来事に気付かずに進み続けてしまったヲタ、状況が悪くなっている原因が自分たちだと気付けなかった、言えなかった者達、
結局、Berryz工房は、負の場面を非常に多く体験してはいるんだけど、それが表立って提起や結論されないばっかりに、千切れたエアーホースのように乱暴にならざるを得なかったユニットと言えるのかも知れません。
私は、Berryz工房というユニットの原状を作り出したのは、ヲタだと思っています。
彼らのスキルがダメなんじゃなく、このハコに適したスタイルを見つけられないダケだとは思うんです。
雪崩を止めるのは決して容易ではない。
そういうコトなんじゃないかな、と思います。
良いことと悪いこと、区別と識別、判断と決断、理と成行き、摘むべきパーツを誤ったまま出荷されていく、その物量の凄まじさは、私一人では食い止めようもありません。
じゃあ黙って見てるしか無いのかな?
無いのかもねw
Berryz工房が背負ってる、私たちが背負わせているいかにも負い切れない重荷は、いつ、誰が、どういった術で受けるのか、全く先が見えてきません。
人生は完全達成されてようやく1%になる、そう言う人も居ます。
殆どの人間の人生には、秘められたままの可能性や上れる状態の階段が99以上残されています。
そこまで大袈裟なコトかと言われると、そうでも無いのかも知れないけど、物事にどんな意味や理由や設定を与えるかなんて、個人のレベルでは底なしの自由です。
私が『ありがとう おともだち』を舞波オマージュとして聴いて号泣しようが、Pink Floyd の『The Wall』を人生の糧にしようが、自由だから、彼らの横暴や無秩序や氾濫を、可能性の1%未満の領域のコトとしてしまうコトで解消できたら、私なんて存在してなくても良い様にも思えます。
まとまらなくなってきたからって、無茶に結論はしたくないけど、それより早く睡魔が来てるので、今日はこうして何も解決されないまま睡眠に向かうことになるのでしょう。
なんでこんななんだろうか、私ってw