人間?


最近まわりで色んなことがあります。


仕事のことだったり、家族のことだったり、金のことだったり、ポジティブに捉えるのが難しい出来事がいっぱいです。


人間って何なんでしょうね。


私は、目にする人間のような物は、常に負の要素と対峙している生き物だと考えています。


仮にこの生き物を『人』と呼ぶことにしましょう。


私は最近前の職場を不当に追われました。


前の職場に居ると、本当にイライラしたものです。


会社の入り口を入ると、それだけでとっても陰気になりました。


仕事の意味が生産性でない職場だった、まるで戦争の中の状態と同じでした。


大義名分も無かったしねw


仕事に行く、この行為の先にあるものは、究極的には金です。


幸福とか、やり甲斐とか、達成感とか、そういったものはオマケだと考えています。


でも、人はオマケが好きなんです。


オマケがあるから、苦行に耐えられるのです。


ただの苦行というのは、人が進んでするものではありません。


しかし、いまの世の中、苦行だけを強いられる仕事で溢れかえっています。


仕事の意味は、社会の歯車や駒となって動くこと、これが大多数の人の労働意義です。


その対価として与えられるのは、ただ金のみです。


金以外のオマケを大きな存在として感じられる人は、本当に奇跡だと思います。


ボランティア行為も、その先にある何らかのオマケが無いと成立しません。


私は基本的には資本主義には反対です。


資本主義、特に民主主義を基礎とする社会での資本主義は、根本であるハズの民主主義の思想とは反発するしかないように出来てるとしか思えません。


努力は報われない、これが事実です。


何故なら、理想は成し遂げられないからです。


人の幸福って何でしょうか、


豊富な財産でしょうか?


数えきれない友でしょうか?


達成感でしょうか?


家族でしょうか?


私は思います。


家族と離れて大量の仕事を強いられる人たちには、比較的多めの賃金が支払われるでしょうが、その結果得られるのは、孤独な金でしょう。


そういう人にとって、金とは本当に無意味なものになってしまいます。


金があるから幸福、というのは誠に虚偽です。


反面、地域社会的状況や家庭環境などによって長時間勤務や家族を離れることが現実的でない人にとって、仕事とは最低限の生活を維持するのに必要なものです。


彼らにとって金とはとても大切なものです。


彼らはその僅かな金では幸福を得ることは出来ません。


彼らの幸福は金と繋がっていないからです。


金があるから幸福、というのは誠に虚偽です。


仕事や、金や、人関係や、生存そのものの末端が幸福に繋がるために必要なものは、常にひとつだけです。


それは、『究極的に個人的な生き甲斐』です。


生き甲斐に触れている人は、富豪であろうがなかろうが、貧困であろうがなかろうが、どっちとも取れない状態であろうが、幸福なもんです。


生き甲斐なんて、特に大きいものじゃなくて良いです。


でも、生きるのに必要なのは、それだけです。


社会の歯車や駒になるのが生き甲斐の人も居るでしょうし、誰かのために何かをするのが生き甲斐の人も居るでしょうし、自分の信じる生き方そのものが生き甲斐の人も居るでしょうし、酒や女や男や所有が生き甲斐の人も居るでしょうし、浪費やムダが生き甲斐の人も居ると思います。


人が死ぬのに意味があった世の中は、随分と前に終わりました。


しかし、生きるのに意味がある世の中は、訪れているでしょうか?


生存は消耗です。


消耗は回復できますが、そのためには何かを消耗しなけりゃいけません。


結局、生存は消耗です。


社会は何かを作ろうとしているかもしれないけど、実は消耗しかしていない。


消耗を辞めるなら、その先にあるのは消滅のみです。


発電は常に原料のエネルギーの大半を捨て去るものです。


太陽光発電であろうと、それは同じことです。


生産は常に消耗を渇望するものです。


ただ生産する、という出来事は生物支配の世の中に存在しません。


これは、精神についても同じことでしょう。


誰かに愛情を注ぐということはエネルギーを要するものですし、誰かを憎むのにもエネルギーは必要です。


そういった感情を捨てて何らかの信仰を得たとしても、そこに対するエネルギーは必要になります。


生物は、消耗を糧に生きる消耗品です。


消耗社会は、民主主義という言葉に置き換えられるかもしれません。


私は、一応表向きには民主主義を唱える日本っていう国に住んでますが、民主主義が発揮された瞬間を今まで一度も見たことがありません。


むしろ、社会主義的な要素のほうが遥かに濃い国だと感じて生きてます。


民主主義を極めると政府という存在は意味を成さないでしょう。


しかし、日本人は強烈に刷り込まれてるので、民主主義を崇拝しています。


『政府』『法律』『警察』『世間体』『平等』『平和』『権利』『自由』


この言葉は、日本人の信仰のために欠かせない言葉です。


でも、最近私の身の周りに起こった事で明白です。


警察ってのは、事件を防げないんです。


警察の仕事は、事件の後始末です。


他の仕事は警察の本来の仕事と違います。


法律によって窒息させられそうになるのを、警察という存在で絶望的な無呼吸にさせられているのが日本人です。


報道の自由、そんなものはありません。


報道は日本人を特定の理想に導くために存在するのです。


殆どの日本人にとって、無意識に刷り込まれたその意識は、強固な礎となっていますが、基本倫理からはかけ離れたものです。


私たちが日本人なのであれば、人間とは言えない。


それぞれの国家が国民にしてきた刷り込みは、国民を人間じゃないものにするために欠かせないものです。


人間は、理性や倫理というものを本来最も信仰するべきです。


しかし、人間がそれぞれのナショナリズムによって生産した宗教というものは、大きな偏りの中で基本倫理を逸脱したものでしかありません。


宗教が基本倫理の結論として生産されたのであれば、それぞれの主張や真理が衝突するなんてことはあるハズが無いのです。


人によって正解が導き出されることなんて絶対にありません。


自分が信じるものが正解となることも、ありません。


信じるから生きて行ける、ということなだけです。


じゃあ、これだけ疑念や虚偽や絶望や統率で翻弄されるこの社会に、生きる意味なんてあるんかい、そう思うような気もするでしょうが、
生きる意味なんてたった一つです。


どんなもんであろうと、『究極的に個人的な生き甲斐』を持っていることです。


恐らく、私の要求する、最低でも基本倫理の枠より下がらない人社会は成立することは無いでしょう。


それは今の社会そのものの殆どを否定することとなりますし、結果的に自分が生き甲斐を得るとは思えません。


私の生き甲斐とは、それは『私という存在の意味が自分以外の誰かによって存在すること』です。


自分という存在を私自身が胸を張って主張するってのは私にはちょっとムリですからw


私もまた、所有欲がある愚かな日本人の一部です。


今まで結構人間を探してきたけど、まだ見つかってません。


それぞれのナショナリズム、それぞれの信念、それぞれの幸福、それぞれの怒り、それは、人間じゃないから。





でも、人生ってのは常に素晴らしいもんです。


なんでだろう、この答えは、まだよく分かんないです。