ジャンプ禁止の時代。
非日常が、そこに存在する。
私が娘。に関わるようになったのは、およそ19年前、非常に素晴らしい時代でした。
初めてハロー絡みのライブに参加したのは松浦亜弥さんのライブで、このライブで初めて特服やハチマキのヲタを見ました。
松浦亜弥さんが本物かどうか、確信は持てなかったけど、ヲタってやつの実物を初めて見たのがこの時でした。
そっから数公演ハロー系のライブに参加する中で、私がライブでいゆるジャンプをするようになった理由は、前のヲタがジャンプしてメンバーが見えなかったから。
前のヲタで見えないなら、前のヲタより高くジャンプすればよいだけのこと。
それが、私のジャンプの始まり。
そっから本当に沢山の公演を、数えきれぬ回数のジャンプと共に参加してきました。
もちろん、常に前のヲタがジャンプしてる訳ではなくなってたけど、音楽のリズムに対する応答として、ジャンプはグルーヴのより高いエッセンスとして繰り出しておりました。
長い年月に於いて、私のヲタ活動とジャンプは密接でしたが、私のヲタ活動の根幹ではありませんでした。
私のヲタ活動の根幹は常に、ライブの空間独特のうねりを体感し、その一部となる事です。
そのうねりの一つが、もう間も無く潰えます。
ジャンプの中でも特に推しジャンというヲタ芸は、激しくありながらも繊細な行為です。
推しをリスペクトする行為と音楽とのバランスであり、闇雲でも控え目でも意味を成しません。
私のスタンスは、音楽の躍動に乗っている推しの歌声のパートの終わり部分に対する喝采と同じ意味です。
即ち、楽曲の持つ空間と推しジャンのムードが一致して、そして融合する時に初めて繰り出される技です。
バラードでの推しジャンはつまり、無意味です、だからと言ってバラードでのヘドバンを否定はしません。
当然ながら、ソロパート全域に対する連続的推しジャンなど、全く意味がありません、ただ騒いでるだけと同じです。
推しジャンが繊細な理由は、そういったあたりです。
来年からハローの現場でジャンプが全面禁止というアナウンスがありました。
今までジャンプありきで成立していたような楽曲も、ジャンプ無しで参加することになるのだろうか、といった懸念はありますが、ずっとジャンプ無しで参加してる方もおられるので、そこは一言論ではありませんね。
しかしやはりジャンプという行為は着地をコンスタントにするために気を遣うし、周囲にも気を配らないといけませんし、あらゆる面では確かに危険な面があるのは実際事実ですね。
私自身は近年膝や脚そのものを大幅に故障しており、正直昔ほどジャンプ出来るような状態ではなかったけど、数少ない推しのソロパートや、楽曲にリンクする部分でのジャンプはやってました。
自分で確保できる範囲の安全性で。
私はね、最近のヲタが昔よりそういった面で分別や免疫が無いことに懸念を感じておりました。
そして、ジャンプが造っていた現場が、そうでなくなってきてるのも見てきました。
それでも、メンバーや楽曲が織り成すうねりは、ジャンプ無くして成立しないような面もあると、そう考えてます。
芸術というのは、私の中では比較して優越や是非を問うようなもんではないという考えがあり、それ故に、特にライブのような非日常の空間に於いては、どのようなもんであれ肯定的に受け入れるのが芸術だと思ってます。
ライブの現場とは、非日常なもんですから。
ライブの空間で非日常が抑圧されるのは、それは即ち表現に対する抑圧であり、日々の抑圧からの解放が得られなくなるのと同じです。
非常に単純な事です。
マサイの人たちも、平日常にジャンプしてるんでは無く、週末の非日常空間でジャンプによる発散を行っていたのです。
ライブの楽しみ方は参加人数分あります。
それを理解していれば、あのような行為は生まれなかったのか、というのは全くあり得んと思います。
そもそもヲタ芸ってのは、ステージとの隔絶的娯楽です。
てか、極端なアリーナとか、物理的に距離が異常な現場で、アーティストとの距離感が絶望的な人がライブ現場を楽しむために発生したのが、そもそもヲタ芸だと私は思ってます。
全てのヲタ芸は、目の前に推しが居なくても意味を持ちます。
でも、ジャンプとか推しジャンってのは、ライブである故に意味を成す行為です。
推しジャンなんて、本当にいとおしい行為なんですそもそも。
推しが歌ってるから、努力してるから、頑張ってるから、それを嬉しく思い、賛辞を表すために行う行為です。
それよりも神聖な行為が、ジャンプですよ。
ジャンプってのは、当然ですが音楽のリズムに応答してうねるのがジャンプ、ビートと情熱の結晶行為です。
重力に反し、重力を感じる。
この反復がジャンプです。
これもう、完全に非日常。
それも、まあまあな人数で行うってのが異常性であり、一体感である訳ですね。
俯瞰したら、どちらの行為もただ物騒なだけですが、ライブの現場が物騒なのは、ロックンロールが産声を上げた大昔から存在するライブ現場の正義です。
日常が、そこには無いから。
日常の延長線上なんかにライブ現場はありません。
だからこそ私は思う、色んな反応を見てて一番私が感じる皆様の苦情はね、前のヲタがジャンプしてアーティストが見えない、というもの。
いや、そうではないよ、前のヲタが巨大なだけで、アーティストは見えなくなるんだよ。
それも、絶対的なもんではないんだよ、自分が巨人であっても、更なる巨人の前では小人なんだよ。
じゃあ、そういう巨人は後ろで見てくださいって事になるんかな?
巨人が微動だにしない潔癖タイガーであっても、邪魔なもんは邪魔なんです。
闇雲にジャンプ禁止となれば、当然巨人が優位になる。
逆に、小人は跳ばなきゃ見えないって事も理解してあげて欲しいね。
平等や平和を主観で要求すると争いになる、これが戦争の歴史でしょう。
7000円も払って貴様がジャンプするのを見に来てんじゃない、反対側には、7000円も払って貴様のためにジャンプを我慢しに来てんじゃない、という事です。
戦争の実体と変わらない。
非常に乱暴な言い方だけど、ライブでアーティストを見たいのであれば、よりアーティストを見るのに特化したファミリー席という設定があるんだから、そちらで安全に見て欲しい。
興業運営側が設定している安全領域です。
相撲観に行って、最前で『おーい!デブが降ってきたんだけどー、危ないやんかー!』
て言うのと同じ。
だったら力士が降ってこない所から観戦してください。
て事です。
でも、それじゃぁライブなんてつまらんでしょうに。
色んな人がはしゃぐのが、ライブです。
私はジャンプ至高論者ではありません。
故に、ジャンプ全面禁止は理解し難い。
私もライブ現場で極端にハメを外したことは何度かありましたが、学び、改善してきました。
その改善は、隣や周りに対する配慮、なんぞではない、自分の安全のためです。
ライブを安全且つ非日常に楽しむために必要なのは、矛盾してるかも知れないけど、繊細である事です。
理解という要素は、繊細な行為によって成り立つんだから、過度なジャンプも、過度なジャンプへのアンチ反応も、無理解だし粗野だ。
そういう意味で言うなら、プラチナ期ヲタは極めて紳士であったと私は思いますよ。
認め合い、協力し、楽しみ、支えていた。
ライブ後にロビーで大合唱した田中っちのバーステー当日ライブ、あんなの今は起こり得ない。
だが、だからと言って今の現場に否定的ではない。
私は今も昔もライブの現場が大好きだし、唯一の救いです。
だから、私自身は、ジャンプ禁止でもそうじゃなくても変わりません。
分別と繊細さが、現場に存在する日を待ちます。
そして、昨今の私の一番の懸念というか正直嫌な現場が、個別握手会です。
私の内向きの個人的な領域では、メンバーと会話や握手が出来る現場があるのは大変助かります。
このような人間なので。
ですが、あの現場がもたらした一番の歪みは、あるはずの距離感が無くなった事です。
私は、常にメンバーとの握手は過度の緊張と共に存在してます、故に、一日のリミットってのが存在します。
一日と言うより、一定期間のリミットです。
どうやらそれが麻痺してる現場なんですよ、個別握手会って。
まるで、安い酒を飲み続けるような、そんな感じに見えてしまい、辛いんです。
余り言いたくないけど、アーティストと非アーティストの間には、あるべき壁が存在するのに、それが薄くなり過ぎてる。
身近になり過ぎたのが、全ての均衡をおかしくしてるように思うんです。
音楽CDの意義が失われて十数年経過しましたが、ここまで破綻するとは思ってなかったね。
まさか、CDが握手券のおまけになるなんてね。
もし私が音楽家なら、そんなイベントは断るね。
開かれもしない、聴かれもしないCDを買って、何度も会いに来るような、音楽を冒涜するような奴に、なんで会って握手して、尚且つもう完全にそのCDの事なんか無関係な話しばっかりするんだね、私ならそんなの憎悪でしかない。
人生を切り刻んでるアーティストに対して、不敬極まりない。
そして、余りに資本主義的でつまらない。
私がライブ現場が好きなのは、結構な勢いで資本主義的ではないからです。
エンタメって、実はロスのほうが多いし、芸術家側はそれでも良いってのが、それがエンタメです。
個別握手会にエンタメの要素が無いとは言わないけど、圧倒的に想像を越える冒涜が、そこにあるんだよ。
だから、どうせなら、『1名義あたり、CD何枚買っても1~7部の握手券が1枚ずつ、メンバーはランダムで入ってます、トレードとかしたかったらそっちでやってね♪』ってのがいい。
その代わり、CDもジャケットも拘り抜いたデザインで、CD収録曲は配信のものとは別のもあるよ、というのが、それがエンタメですわな。
私は、メンバーとの握手も会話も、あってはならないものを特別に用意してくれてるものだって考えてます。
どのような金額であれ、そのプレミアム感は変わりません。
その感覚が失われ過ぎた現場に、長時間居るだけで疲れます。
だから、個別現場には、なるべく短時間居るだけで終わりたい。
そう思います。
繋がりが無いとは言えない、個別を取り巻く環境とライブ現場の変貌、必要ない戦争は、したくない。