二日続けて観ました。
ちょい古い映画ですが、ネタバレしながら感想を。
私の中で"ビッグバンドジャズ"ってのは"究極の予定調和娯楽音楽"だという解釈です。
要は、構成音楽の頂点です。
構成する以上、入念且つ綿密である必要があります。
"ジャズ"の堅さの極みでもありますが、反面"ジャズ"という音楽のイメージが織りなす"オシャレな感じ"が、ふとその堅さを"親しみやすさ"と勘違いさせるような部分もあるのが即ち"ビッグバンドジャズ"なんじゃねえのかって思ってます。
個人的にやることには一切興味が湧かないですが、聴いたり観たりするのは好きな種類の音楽です。
"ジャズ"ですらほとんどが予定調和音楽なんだけど、ビッグバンドジャズは"ジャズ"ではない。
より近代的なシンフォニーです。
当然ですが、演者側が観客に"見せる"種類の音楽です。
私は構成音楽も偶然音楽も両方が好きな人です。
故に、この映画には大変興味深い部分があります。
聴く(観る)客に対して、音楽の構成者と演者に必要なのは、摩擦なのか、協調なのか、という部分。
私は芸術を採点するのが凄く嫌いです。
好き嫌いはあっても、絶対的な点数としてしまうのは、それは主観否定だから。
バンドコンテストで数点差で負けたバンドと勝ったバンドの差なんてものは、たかが運です。
芸術点、こんなものは評価対象になってはいけないと思います。
ハッキリ言いますが、芸術とは即ち"摩擦"です。
スッキリ飲めるドリンクでは何も残らない。
今日ね、職場で凄い話をしてる人が居たの。
『Slipknot』を聴いて凄いと思ってから『METALLICA』を聴いたら大したことなかった。
と言うんだよね。
ワタシには『Slipknot』はカスです、ただし、とても好きなタイプの音楽を創ってくれるバンドとして、とても好きです。
このぐらい、主観ってのには違いがあるってこと。
芸術は、摂取する人の主観で論点も評価も大きく様変わりする。
売れたから素晴らしいなんてことはまず無い。
当然、売れないのは良くないから、ではない。
芸術の評価は、これほどまでに数字にできないもんなのです。
そんな中で、この映画は主人公のニーマンが音楽を初歩的な憧れから道具にしてしまうまでの『悲劇』を描いた作品なんではないかと思うのです。
フレッチャーが指導者としてどうか、というのも関係ない、何故なら、バーでピアノを弾くフレッチャーは本当に音楽に触れて同調してるから。
最初のニーマンのような顔で、ピアノを弾いていたから。
フレッチャーにとって多分、ビッグバンドジャズでの指揮者ってのは道具。
要は、取り組んでる事柄ってことであり、音楽そのものとは余り関係性が無いように感じました。
小編成であれ、どういう姿であれ、演奏家としての演奏には大きな余裕があり、評価も何も特に気にしないって感じを受けました。
一方ニーマンは、フレッチャーの指導者としての評判やカリスマティックな指導に触れて、そもそもの憧れを失ってゆき、音楽への基本的に必要な触れ方を忘れてしまったように感じました。
最後の演奏で、フレッチャーの意思に逆行したつもりで始めた"Whiplash"にバンドが従ってしまった理由は何か、
要は、あの気迫に圧倒されたんだと思う。
ジャズではしばしばリズム楽器とされるドラム・ベース・ピアノが始めてしまったら、もう止められない。
これが構成音楽の姿です。
ビッグバンドジャズが道具になりやすいのは、こういう理論立ったものがハッキリ提示されてしまってるから。
フリーミュージックには存在しないルールですが、どちらが良いとか優れてるとかそういう事にはならない。
フレッチャーは、あのステージの一曲目を、ニーマンだけに知らせていなくて、尚且つリハーサルにも一切ニーマンを呼んでいない。
だから、ベースの兄ちゃんがニーマンに『ちゃんと叩けよ!』って言ってる訳です。
つまり、あのドラムは、ちゃんとしてないって事になるし、あの場所の全ての人がそう思った訳だ。
ハッキリ言って、ジャズが譜面をなぞらないでも大丈夫な音楽だとニーマンが本当に考えていたなら、手元に譜面があろうが無かろうが、フレッチャーの指揮を見ながらある程度演奏出来たろうに、フレッチャーの指揮を見ることも出来ないで、適当に叩きまくって締めまで盛大にずらしてます。
他のどの時の指揮よりもフレッチャーの指揮は分かりやすくなってたから、私ならなんとかするよ。
フレッチャーが言ってたことは確かです。
ニーマンには根本的な才能が無い。
譜面をなぞるのは、ある一定のレベルの人なら簡単です。
それは練習で手に入るスキルです。
あの場面のフレッチャーの指揮は、とってもとっても優しさに溢れてた。
なのに、その全部をニーマンは理解できず、最終的に自分の知ってる曲と、割と有名なバディ・リッチのドラムソロのコピーを混ぜた高速スウィングで圧倒しようとしました。
要は、ジャズの根本的なフリーな部分に全く触れずに、自分の知ってるスキルでなんとかこいつを倒してやる、という様な感じです。
つまり、この時ニーマンは音楽をやってない。
一番最初のシーンのニーマンのドラムは音楽的だけど、最後のドラムソロからの流れは非常に傲慢で人間的です。
そして、フレッチャーは多分こう言った、『上出来だ。』とね。
バーでフレッチャーが言った、最も最低な言葉は『上出来』だと。
ニーマンがどうかしたってのは、周りの人はみんな気付いてた、家族も、ニコルも、バンドメンバーも。
あと、事故った時のトラックの運転手も。
という感じ。
バーのシーンでフレッチャーはニーマンが密告者である事を誘導的に紐解きます。
ニーマンはボケナスだから一切気付かない。
この映画の結末はハッピーエンドだって人も居ますが、あの映画でハッピーエンドを迎えたのはフレッチャーだけです。
特にニーマンに関しては壮大な悲劇、正直アナキンよりキツいw
知らない曲は出来ません、知ってる曲では調子乗れますって大勢の前で公言したようなもの。
本物は、知らない曲でもなんとかしますよ。
音楽教育の成れの果ての深刻さを物語ってる映画だなって気もします。
フレッチャーが自分のバンドで初めてドラムを叩くニーマンに対して要求したのは単純にテンポが速いか遅いか気付けてないって事柄でした。
でも、始まる前はとにかく楽しめって言ってました、あれが本質です。
プロの音楽業界ではテンポキープが神話みたいになってますが、私はそれに反対だし、滑稽だとも思う。
人間は脈動です。
芸術もまた極まれば脈動するべきもの。
しかし、指導の観点ではそれは否とされてしまい、何らかの正解に辿り着く事を要求されます。
コンテストで優勝するには評価と点数を得なければならない。
これは大きなミスです。
私は年に一度、高校生のバンドコンテストで審査をやりますが、一位と二位のバンドは常に判断が僅差ではありません。
抜きんでてるから一位。
それは、点数を付けてないから。
音楽を点数にするのはバカバカし過ぎる。
バンドコンテストの後、優勝しなかったバンドの人がその理由を尋ねに来たりします。
でも、優勝しなかった理由なんて無い。
音楽に対して接する接し方は人それぞれ。
優勝したバンドは、既に音楽に近い、というだけの事。
上手なだけや、出来るだけや、楽しそうなだけではいけない。
音楽に触れるってのは、純粋に音楽の道具になるってこと。
音楽を道具にしてしまうと、音楽はそれ以外の時に応答しない。
でも、自分が音楽の道具なら、それはもう常に音楽によって導かれているという事。
多分だけれど、その頂点となった人は、もう音楽そのものなんだと思う。
その表現として、フレッチャーは頂点のような描写がされていました。
フレッチャーがバンドに対して罵声を浴びせるのは、音楽への触れ方が適正であれば、その罵声には怯まないで音楽と調和出来ると知ってるから。
でも、バンドの生徒にそんな人は居なかった。
まあ、当然です。
音楽学校で演奏やらなんやらに取り組む、特にエリートな音楽学校で野心を燃やす人ってのは、恐怖の塊です。
それは過去の何らかの偉人に対する高い憧れであり、その壁を超えるのに必要なものがそこにあるって信じてる人達で、指導者はその点である種のカリスマです。
究極的には、ああいう高名な音楽大学でエリートであればあるほど、音楽的な意味は薄れる訳だ。
触れているのは音楽ではなく、そのカリスマな指導であり、その状態の自分に酔い、評価に対するステータスを過信し、数字的に評価します。
もう音楽である必要は無いよな。
ニーマンが本当に楽しむのであれば、テンポが違うというフレッチャーの指摘に対して、楽しいが故のテンポの揺らぎなんだからしょーがなかろう、そう言えたハズ。
結局、カリスマ先生の言う事は絶対だった。
音楽はもっと自由だよ。
好き嫌いは個人のそれぞれの主観。
この映画の結末が悲劇なのは、音楽的に悲劇であるという所。
フレッチャーは、最終的にニーマンを掌握している。
つまり、フレッチャーの勝ちであり、フレッチャーとしてはとても残念な勝利です。
ニーマンとしては、圧倒的な勝利ではあるが、その後に残るのは巨大過ぎる虚無でしょう。
映画としては、表面的な部分としてはなんと言うか、全てが筋書き通りなんだけれど、音楽家として観たときには悲劇、人間ドラマとして観たら深い、サスペンスとしては強烈、と言った感じですね。
この映画を観て、音楽の上で一体何がエリートなのか、それはしっかり考えなきゃいけないよって思います。
ブランドとか肩書とか、それって意味を成さない。
もっと初歩的な興味を、絶対に失ってはいけないと思います。
誰でもできる事を学びに行く学校なら、どこでもいい。
そして、その先にある音楽は、学校では学べない。
多分、音楽的にはそれがこの映画の結論かなって思います。
全く以て私の主観ですけれどもw