『教授』の『東風』

山葉さんのMIDI自動演奏ピアノを使って一人連弾をする教授の『東風』はイイよ〜w



さて、



昨日の太田総理に彩っぺが出てました。


子供を守るために学校の死角を無くすべく、そこらここらにカメラを付けようっていう千秋さんのマニフェストでしたが、この御時世なら何やってもダメですよ、
だってそのカメラで監視する教師がロリコンだったら意味無いし、
仮に外部の警備を入れて監視してもそいつが闇で変態なら意味が無い。
事件が発生しても学校が管理してる以上もみ消し自由だから意味が無い。
警察に提出しても受取が汚職や変態なら意味が無い。

カメラがあろうと無かろうと、結局は人間の良心次第であって、今の日本人に『安全』だの『補償』だの言う資格がまず無いんですよ。


あと、悪いことやる人に『死ぬ気』が無さすぎる。
律法に背いても自分のやるコトに信念を持ち貫くぐらいはやってほしい。
だからスッキリしない事件ばかり起きるんです。

曖昧犯罪が増えるから法律が増えて余計にややこしくなる。

律法のうち甘い部分を全撤廃すれば、犯罪者側もより法律を学んでくるんじゃないかな?と。


そもそもこれだけアホとマヌケが増えてるのに、アホもマヌケも天才も同じ法律で裁くのはおかしいんですよ。

犯罪者も強い法律を武器に戦えば良い。

軟弱犯罪に軟弱法律で軟弱刑罰だから軟弱罪人が減らないんです。



かの昔、人は自分の生きる術のため、悪事にせよ善行にせよ命を張り、また命を張れない人は生涯負目を感じなが生きたりもしたもの。

生命が当然性の高い現代社会に於いて、生命はより軽視され使い捨てやすいものとなっている。

その良い例が『労働』と『雇用』の関係。

労働とは普通、自分のためにやるもので、そこに釣り合いが取れない労働は、過剰な場合労働者には不利益で、希薄な場合は過利益。

雇用は一般的には生活のため、つまり労働者自身のためにあり、雇用者は労働者が持つべき健康や福祉を覆してはならないハズで、逆に雇用者は労働者の労働の結果の一部を糧に生命を維持する訳で、その釣り合いを取る努力をしなければならない。

労働側に『献身』や『奉公』の源が大多数に無い以上、雇用側にももちろん『感謝』や『称賛』の精神が欠如する。
逆転発生も然り。

故に根本の生命が使い捨てられやすくなる。


厳密には『権利』というものは存在せず、人間は節度と思考によって自らをコントロールする努力を以て自分の『領域』を守ればそれで良いハズ。

『欲望』の真意を履き違えた大人がはびこり、その結果を見た子供は履き違えの『欲望』を真意とみなし、まるで正義のように振舞う。
その子供が大人になり、履き違えたまま社会を築き、その社会を基盤に末裔が沸き出ている。

善悪の識別が狂っているので、悪い事をする人が公になると、悪者になる。
では、そもそもの悪い事自体が野放しであっても、それを『悪い事だ』と言う神経はあるのか、答えは否。


誰が悪いとか言ってるうちは、どうにもならんのです。


一番どうにもならんのは、やはり今の人間が受けた人生であり、例え今から生まれる人間への人生提供を完全修正できたとしても、このモンスターな世代が死に絶えるまで約150年は『安心』など不可能でしょう。


『安心』を買ったつもりでも売り手が『不安』を見逃すと一瞬で『安心』は崩れる。


だから、人間は『安心』を命と引き換えに手に入れるべきだということになってくる。


『安心』は、各人間の精神同士の調和があって初めて成り立つものであり、システマチックに筋書いた『安心』はある日突然『不安』に姿を変える。



社会は途方もなく歪んだのだから、カメラ設定で得た安心の結果は、視野全体で言うと『からっぽ』の平和でありましょう。


からっぽでも平和に死を迎えたい人が多数なら、いずれ世界は『内容がからっぽ』の劇場となるでしょう。




結局、犯罪を増やしているのは、自分で自分自身の平和を守れない癖に高い基準の平和を望む人の『不安』です。