譜久村聖さんの卒業公演に参加して参りました。

奇跡的に比較的良席で参加出来ました。

ふくちゃんが神々しかったり眩しかったような話はいくらでも出来てしまいますので、私の切り口で記録したいと思います。

まず今回の卒業公演の根幹を成すのは、今の娘。であるっていう『結果』だと思いました。

そこには、大御所から新米まで、不思議なまでに多種多様な性格のメンバー達が集い、1つのステージに立ってパフォーマンスしている状態があり、状態としてはウルトラスマートの最終公演に近いものがあったのにも関わらず、あの公演と全く違うフェイズに達していたのが、即ち『リーダー譜久村聖』の結果なのではないかと、思うのです。

一人のリーダーがこなした期間として最長であり、その体制に関わったメンバー数の在籍記録も最長な訳で、これはつまり、娘。の商業ベースとは違う部分に直結する個性を成す行為でして、これがつまり、誰がリーダーとして居たかを物語るスケールになると私は考えてます。

特に印象的なのは、ふくちゃんのメンバーとの関係性で、その部分はDVDマガジンで私は大量に摂取して考察しました。

最終的にこちら側に見えてくるライブやテレビの、その少し奥にある関係性が見えるDVDマガジンって、リアルタイムではない超現実そのものであると感じています。

リーダーがメンバーとバカ騒ぎをする構図は娘。の最初期からありますけども、メンバーの伸びるべき伸び代に最大限アプローチする姿が見られた『ふくちゃんの時代』は、特に印象深くて意味深いものでした。

私が記憶している譜久村聖の、リーダーになるまでの時期とそれ以降のイメージは、実は全く違っていました。

もちろん、ふくちゃん単体に起きた出来事ではないから十二分に周囲の環境の結果でしょうが、あれ程に一人一人に深入りしながらもバランスを保てるリーダーは見たことが無かったと思います。

ふくちゃんがリーダーになってからのDVDマガジンを観ればよく分かりますが、殆んど関わらないメンバーってのが一人も居ないんです。

むしろ、全てのメンバーに対してとてつもなく深入りする、不安すら感じるぐらいに深入りしてるふくちゃんを観て、でもその直後にはまた違うメンバーにどんどんと深入りしている、そうしながらも自分の事も見ている、これは個人のパワーでは不可能で、必ずそのための周囲の環境が必要です。

過激なまでの高揚の時代が即ち道重さゆみの時代ならば、境目のグラデーションの解像度が極限まで高められていたのが譜久村聖の時代かなと。

もちろん、全てがパーフェクトな時代はありません。

ふくちゃんがリーダーであろうと存在したギャップやしこりはあって、でもそれがまた結果としてはグループとしての娘。を高い緊張感でもって高めたんだと思います。

結局、娘。に必要なのは徹底的な一体感などではなく、個々の自立なのです。

その高い自立状態を構成するのに必要なのは、リーダーがどんだけ混ざっているかだと思います、それをうまく構成できた、樹立出来たと私は見ました、そういう娘。の、譜久村聖時代でした。

 

私は結局今もえりぽんを中心に観ている娘。DDです。

えりぽんとめいちゃんとの差分は今は殆んど無いですが、そのフェイズに私が到達するのに一番必要だったのは、メンバーそれぞれの際立ち方だったのですよね、で、その部分で私が娘。を高く認識するファクターメンバーは、石田さんと小田さんだったってのは、不思議だけど決定的でした。

 

私の娘。ヲタとしての基礎思想として、加入を果たした全てのメンバーは私にとって高いリスペクトの対象です。

そして、歴史を刻んでくれた全てのメンバーも同じく高いリスペクトの対象です。

でだ、ふくちゃんの存在って何だったのかと言いますと、これはもう比類無き慈愛の体現者でした。

昔、安倍なつみさんが里沙姫の事を『掛け値なしに娘。を愛してくれてる』と語った事がありますが、そういうメンバーは実は新垣さん以降殆んどであり、その結果みたいな部分として譜久村聖の存在は、深みのあるものでした。

卒業発表から卒業まで、非常に長い時間を私達に与えてくれた事は、本当に感謝していて、だからこそ、この卒業公演は絶対に見届けなければならない公演でした。

映像として残る公演だから、あの公演そのものをカメラ目線として繰り返す事は出来るのですが、私が今までに感じた事の無い、えぐいまでの立体感は、もう2度と味わえないんですよね。

あの会場に居た方は体験してるのですが、ふくちゃんが最後に外周を廻った時間、特にあの時間の立体感は、それこそ譜久村聖という人の存在現象に吸い込まれている状態でした。

リアリティしか無い時間帯であり、そして2度と訪れない時間です。

私は、ライブの映像作品を殆んど観ません。

理由は単純で、現場には勝てないからです。

その理由は、ライブの現場とは、メンバーやスタッフさんだけではなく、私達の関与が大きく作用する場所であり、個人的に現場とは、客としての立場ではなく、ライブを成立させるための要素として存在するべく臨む場所だからです。

あの場所で、私は確かにふくちゃんの卒業を見送りました。

個人的レコードとして、安倍なつみさんからだと、卒業公演として、小川麻琴さん、鞘師里保さん、森戸知沙希さんの公演に参加していませんが、その間にあった卒業公演で、私が参加した卒業公演の、その頂点となったのが、譜久村聖さんです。

卒業公演とは、区切りではなく決算です。

その方のいわゆる、限り無い集大成です。

どの卒業公演であれ、尊き公演です。

私は『卒業公演』の、あの緊張感が本当に大好きなんです。

卒業が嬉しいからではなく、娘。に尽くしてくれたメンバーの、その全てに最後に触れられる機会だからです。

どの公演もたった1度である事は、実は結構稀薄に考えられておりますが、どの公演であれ、たった1度です。

それぞれの公演に優越は無く、尊厳があり、貴重です。

メンバーが、どんな状態であのステージでパフォーマンスし、どういったものをこっちにぶつけてるのかという事を考えるなら、こちら側は、ただ観てるというアクションには全くならない。

どれだけそこにぶつかって行けるのか、それこそライブの現場の意義です。

もちろん、参加の仕方や解釈は人それぞれです。

決まったやり方などありません。

私のスタンスではあるけど、私の導き出した答えです。

私は、ふくちゃんの卒業公演に、確かに参加出来ました。

この時期まで、ふくちゃんが卒業しなかったのは、そういう事なんじゃないかなと、そう私は解釈しています。

コロナの最中に、卒業を決めた方々ももちろん居ます。

それぞれの卒業は、高次元で尊重されるべきだし、実際そうです。

だからこそ、この1年の現場の変貌は、ふくちゃんの卒業を見送る上で、必要なものが徐々に構築された時間であると感じていました。

NESSへの参加は、卒業公演を含めて8公演でした。

非常に濃い8公演でした。

もっと沢山見届けたかったのですが、今の私の最大限でした。

悔いは御座いません。

しっかりと譜久村聖を堪能しましたし、譜久村聖時代を見届けられました。

こんな幸福はなかなか無い。

だからこそ、私は次の時代に今より遥かに高いハードルを与える事にしています。

えりぽん時代、どんだけの期間やってくれるのか分からないけれど、私が最終的に得られなかった『熟した里沙姫時代』を踏襲しないで欲しいと願います。

何かって言いますとね、結局新垣さんはそもそも愛ちゃんとの同時卒業を願っていたのだけれど、時期をずらすという事象によって、ごく短い期間をリーダーとして過ごしたと、そう認識される部分が残ったって事です。

無論、里沙姫時代は確かに存在したし、新垣さんでなきゃ成立し得ない次元のライブがあったのも確かだし、沢山見届けられました。

強烈に幸福な時間でした。

だからこそです、期間としてではなく、意味として、そこを遥かに超越して欲しいと願うのです。

これが、私がえりぽんに託す、今までで最も高くて辛いハードルです。

不安も疑念もありません。

えりぽんだから超越してくると確信しています。

そして、サブにいる石田さんと小田さんが、最強のカタパルトであると信じています。

そこに続く全てのメンバー、スタッフさん、私達が、決して物怖じなどしないと、そう確信しています。

そんな感情を、今はゆっくりと煮詰めております。

 

当然のように過去を越える『モーニング娘。』は、当然、超えてくる、そのためにメンバーはもがいています。

この瞬間もです。

私は、決して敗北しません。

ふくちゃんがステージを去る時、私は改めてそう誓いました。

卒業したメンバーが、結果色褪せるのが正解の、娘。だからこそ、次の娘。が待ち遠しいし、楽しみです。

そして、あの時のあの空間のあの異常なまでの輝きを、私は決して忘れません。

 

誉れ高き乾杯を、譜久村聖に捧げます。