結局

私にはよく判らんことですが、それでどうかと問われると、どうなんかも判らんのが私です。


昨日のこと、職場で一人の方が意識を失われるという事柄が起きました。

本日、医師の診断を受けるとの事ですが、持病を隠蔽されていたとのことなので、恐らく解雇か、療養休業を余儀なくされるでしょう。

リフトを運転される方なので、運転中の事故を未然に防ぐ手段としては、これしか道が無いのかも知れません。



方法というのは、そのケースに従って道が限られている場合もあれば、多岐に渡り過ぎて即時の判断が出来ない場合もあります。

人生に於いて、何かに依存するということの必然性と受動性というのは、必ず噛み合うとは限らないですから、いつの日かどこかで周波数が異なってくることがあっても、致し方無いのかも知れません。

ただ、そこにあるのはあくまでも、道を自分で進めるか、否か、立ち止まるか、そのくらいのものです。

しかし、それを決められるのはあくまでも自分の決断力というものだけであって、他のいかなる尽力もそこでは全く無意味なものであり、また、お節介なものでもあります。

誰かが病に伏したとして、その場所で見守ることよりも看病することのほうが勝っているとは限らないのが、結局受ける側と与える側との溝の噛み合わない部分で、それが『衝突』となって外側や内側に現れるのです。

そのような場面では、やはり、人間の精神面での『耐性』と『観察眼』が磨かれているのか、まだ原石なのか、それが浮き彫りになるのでしょう。



真実というものは、世の中にそう多くはありません。

結局真実を決めるのも、信じるのも、捨て去るのも、また、何もしないのも、その人の行動と決断の場面では『真実』としてあるもので、それ以外のいかなるものも、きっと真実とは言い難いものです。

人間は心の底から何一つ強い生き物ではありません。

弱い生き物は、強い生き物に憧れながら、強い生き物の糧となってゆき、また、強い生き物は、弱い生き物に対する敬意を重んじるが如く、弱い生き物を糧とする、それが生物の定めだとすれば、人間はその定めに反する力を与えられた、実に卑しい、醜い、下劣で、尊び難い、あたかも怪物のようなものにしか見えてきません。

但し、人間には、考える能力と、感情を操る力が与えられています。

不必要ながら、言葉を使う力もあり、そのため、欺瞞や裏切りも生じやすくなるのでしょう。

ただ、やられたところで人間の真価を問われるのは、それこそ、欺瞞や裏切りに合ったときの、その人の思慮というものかと思います。

被害者意識というものは、自分をとにかく良くしようとは思わない人の心にた易く生まれるもので、これは簡単に増幅されるし、容易に飛躍もします。

その増幅を助けているのは、不必要なプライドです。

逆境に直面したとき、自分を被害者として見るのは一番簡単です。

本来被害者というのは、強い人がその力を発揮する場面に置かれない場合、本人にはどうしようも無い場合、被害者と呼べるのでしょうが、精神面に於いて『被害者』と呼べる人は、究極的には絶対に居ません。

害を被ったと心が感じたとき、害を加えた人の心理を度外視すれば、それはもちろん被害と呼べるでしょうが、加害者にももちろんのこと、精神というものがあり、往々にして加害者こそ心に慈悲を必要としている場合が多いのです。


イジメ被験者として言うけど、イジメは、イジメる側にとって、必要不可欠なんです。

そうして、自分の中にある弱点を見ないようにしないと、生きていく意味を持つことが出来ない、ただそれだけなのです。

加害自体は許されざる恥ずべき行為だけど、被害自体をただ『被害』とするのは、被害者の勝手気ままと言えます。

加害者がまるで自分より強い人のように見えるのは人間的感情と植民地体性下の教育の結果とも言えます。

ちょっと考えれば、スグに判ること、精神的イジメを加える人は、精神的に弱過ぎるのです。





自分の精神が、甲乙どちらに傾いているか、その答えをしっかりと見つめれば、自ずと答えも、道も、はっきりと見えて来るでしょう。





職場の方は暫く休業、恐らく私と再び出会うことは困難でしょう。


でも、私は彼に伝えたいものです、きっと大丈夫だと。