PPPな一日
でもなかった1日でしたが、某企画の立案と設計と作成をやりながら、半日ひたすらGAKI・KAMEを聴きまくりました。
娘。春は確かに追加がありました。
無いと思ってましたがw
今年は、1年前にやろうと思ってたことの半分も出来ませんでした。
経済的理由、時間的理由、能力的理由、まあ理由は様々ですが、多分企画力と推進力の不足が大きな原因でしょう。
来年は、やろうと思ったらちゃんと企画推進することにしよう。
ちゃんとした計画仕様書も作って行こう。
とか言って、今年立案した企画書のファイルがフォルダに埋め尽くされてますがw
要は企画だけじゃーなく計画性も十分大事だってことがよーくよく判りましたよ。
小さなことからコツコツ、小さいことの積み重ねで、でっかいもんを作りましょう。
音楽も基本的にはそうです、朝思いついて朝出来上がるものなんて1年に1個あれば奇跡。
大体は思い付きや発注内容を熟考しながら練り練りすんのが一人で構築する音楽です。
バンドとなると、急に要素が変わる。
バンドなら、集まって楽器を持てば、いきなり曲の量産も可能だし、練り込みも比較的早くできるし。
どっちが正解というのは全く無いけど、どちらも進めたい、という理想はありますね。
ユニットやプロジェクトも同じく、ある程度の意識統一の上で物を作るには早い手段だ。
一人だと、基本的に文句を言うのは自分ダケだから、より個人的なものが出来やすい。
だから、一人で音楽をやるときに一番気を遣うのは、客観性となります。
客観的に見る(聴く)ために、オリジナルでも外注でも基本的に曲への愛着を深めないようにしています。
完成に近付いて、ある程度色んな人の意見が入手できると、自然と愛着も沸くもんです。
私は基本的に作曲ペースに波があるから、出来るときは1週間に20曲こなすし、無理なときは1ヶ月なにも出来上がらないときもある。
イメージと音と物理要素の間のコンパイル作業は、非常に複雑で、流動的で、意外性に満ちている。
非常識なレベルから、安易なレベルまで、定型のイメージから、斬新なイメージまで、全てをウマくいじくれる能力と、判断する能力が、恐らく音楽や表現というものの創造を司っている魔物なんだろう。
経験則が非常に力強く、思い込みが死をもたらす、それもまた表現の怖い一面。
しかし、今まで廻り合わなかった可能性に出会ったとき、異様にアドレナリンが沸くというのも、クリエイターの性分なんでしょう。
意外性というのは、学問でもあり、無学でもある。
音楽で言う理論が全く実践で頼りないのは、音楽の『理論』の応用性が低いことにある。
音楽は『理論』以前に『感情』が高価なもので、理論があれば間違いない、という世界では全く無い。
むしろ、音楽に於いて理論はほぼ無能で、理論よりも原理のほうがよほど約に立つ。
恐らく音楽でいう原理は、物理学の法則や、物理的必然性のことになるんだろうけど、その後ろに必ずあるものは、感情的動機であって、理論は全く関係ない。
だから、音楽というものは『表現』という芸術的要素の中に含まれ、おおよそ学問とは言い難いのだ。
追求してもたどり着かず、いつの間にやら元の場所に戻っている、そして別の軌道を進んで、また元の場所にも戻る。
あとからあとから迫ってくる外注の曲達、全部面倒を見るのは私だけど、最終的にそれを判断するのはパフォーマーで、それを理解するのは観客。
芸術を構築しているのは、作者でも、演者でもなく、観客の個々の性格や感性なのです。
私たちは自分の世界観を描きはするが、それを受け取る人が心に描くものはそれぞれ違うものだから、根本的な責任が私たちにあるとは全く思えない。
作為的意図があったとしても、それをその通りに受け取るかどうか、それは、観客とモラルが決めることであって、表現というその行為自体には罪は無いかも知れない。
基本的に、音楽には悪意は無く、それを表現する人の悪意が存在して、受け取る側に悪意があれば、それは悪意となる、それだけのこと。
つまり、逆も然りなのである。
ここまでくると私たちがやってること自体の意味がぼやけてくる。
芸術は、人間が生存するために必要なものではない、しかし、芸術によって生かされる人間もまた多い。
人間は、とかく贅沢でワガママで、自己中心的だ。
だから、面白い。
だから私は音楽を作ろうとするのです。