変化
身の回りで、あらゆる変化が起きている様子です。
私は、変化そのものに対しては強いんですが、人間は、素敵に物事を考えてばかりは居られない生き物です。
多分、へし折れる人も居るだろうし、もがき苦しむ人も居るだろうし、何も感じない人も、色んな方が居ると思います。
私は、未だに舞波が居なくなった出来事を理解出来ませんが、事実と変化だけは、確かにあったのです。
自分には大変都合の悪かった出来事ですが、その反面、何年間も掛けて考えているとおり、舞波が私の心から去ることは無かったのです。
それは決して不幸なコトではないと思います。
何かを引きずってマイナスに生きるか、何かを引きずってプラスに生きるか、
要は、出来事の捉え方なんだとおもうんです。
生きるままに生かされているのか、生きたいままに生きるのか、どちらも正解ではあるけど、より魅力的なのは後者だと思うのです。
人間はロボットではないから、意思や希望と刺し違えるコトも多いのです。
それはエラーではなく、結果なのであって、決して他の何かのせいにはしちゃあいかんのです。
自分は舞波を応援していました、物理的にも、精神的にも。
舞波は卒業を選びました。
それは、ある人にとっては歴史の一部分であり、
ある人にとっては耐え難い出来事であり、
ある人にとっては笑い事であり、
ある人にとっては美しい景色であり、
ある人にとっては疑念であり、
ある人にとっては後ろめたさであり、
ある人にとっては勝利であり、
そして、
ある人にとっては敗北でした。
あの日、スイッチON!の初演の日、ステージ上で、舞波の卒業が、清水佐紀さんから、現場で直接伝えられました。
私はその日、ヒョとハロショに行っていました。
メールで連絡が入ったとき、よく判らなかったんです。
その日も、舞波の写真を買って家に帰ったんですが、どうしても落ち着いてはいられなかった。
あの時点で、舞波に会える最後の機会が、恐らく愛知厚生になるんではないか、という予感がありました。
あの時、私がもっとワガママであれば、恐らく舞波の卒業公演には入っていたと思います。
でも、今思うのは、卒業公演に入らなかったことで、今も舞波ヲタとしての要素をひきずっているっていうコトは、自分にとっては大きな救いであるというコト。
逆に、愛知厚生での思い出が濃くないというコトについては、今も自分を許せない部分でもあります。
時代に逆らうだけの度胸が、まだ無かった。
有原栞菜さんの件は、真実を見ようとするべきでは無い、少なくとも、今は。
相手が人間である以上、時間が導き出す答えが必ずある。
そして、その答えすら、真実であるかどうかを決めるのは、自分ではない。
いつだってそうだけど、現実に起こった出来事と、人間が感じる体感事象には、大きな溝が出来ます。
その溝は、放置するとみるみるうちに巨大化してしまい、暫くすると、溝ではなく『無』になってしまうのです。
人間は、感じる力と、考える力と、耐える力の備わった生き物でもあります。
何も考えられないときに、いかに耐えるか、いかに感じるか、、、
℃-uteヲタ、栞菜ヲタにとっては、大きな人生の正念場です。