憎とは。

ロドリゲスに釣られて逆論を紐解いてみたいと思いましたので、やってみます。



まず結論、憎しみの根源は『愛』です。


『愛』に『利他要素』が加わると、一番理想的な愛が出来上がります。


ですが、これは理論的なもので、『愛』の殆どは『利己要素』ありきなのが実際であり、正解です。


要は、『利他』という現象自体、『利得』や『利益』の意味を含んでおり、何らかの『利』を目的としているため、完全なる『利他的愛』は、結果的にどこかに完全なる利益を産むための『愛』であると言えます。



現代社会の最大の欠点は、世代、立場、心情、主義、これらのパーテーションが強固であるコトです。


それぞれの要素は、決して互いの主張に賛同は出来ないので、そこに『利他愛』は生産されません。


一元論で対立したとしても、別の要素で投合し得たなら、ある一定の『利他愛』は成立するでしょう。


昨今、あらゆる要素は、『愛』の論理を個々の人格内部で独自に形成する指向性能が強く、必然的に生じやすいのが、『利己愛』という結果になっています。


本来、『愛』は必ず外部で何らかの『憎』を生産するものです。


それは、倫理的部分とは隔絶された『自己主張』と『現実的愛』のギャップが生み出すエネルギーであり、実際は『愛』より『憎』のほうが強く壊れにくいものです。


現代社会に於いて、資本主義と全体主義の根本に、外向的憎悪が働くエネルギーの結果ほど、生産性の高いものはありません。


現代社会を支える『愛』は、専ら『内向的愛』であり、完全なる『外向的愛』は、生産性の利得がマイナスに張り付いている状態に思えて来ます。



では、本来の愛とは何か?


私はこう思います。





愛=尊敬



これが全てです。


尊敬の結果は、『無条件』ではなく、『世話焼き』や『叱咤』の要素を含み、『尊敬』は古来では敵対間にも存在するものでした。


相手が敵であろうと、悪人(一方的概念で言う意味の)であろうと、唯一保持出来るのは『尊敬』でしょう。


人を尊敬するコトは、人(概念や心情を含む)を憎まず、その行為の要素を憎むものであって、人格と行為を切り離して判断出来る、恐らく唯一の方法です。




ワタシは、なるべく自分以外の全ての人を、憎みたくありません。


愛は憎しみを生み出し、憎しみは愛を創る、それが私の理論的な結論です。


故に、私はただただ、自分以外の全ての人を、尊敬したいと願うのです。


一日の生活で、自分が何を出来たかではなく、自分が出来なかったコトを数えていれば、生命を長く保ちたいと思えると私は考えます。




憎しみとは、即ち、愛の逆要素、二つは必ず一対であるのが道理です。


ならば、憎しみの力を借りて尊敬のきっかけを探すことで、また新たな愛を生産出来る、それが私の考えです。









それら全てを踏まえた上で、『無欲な愛』という概念こそが、唯一最強の愛であるというのが、私の『愛』に対する答えです。



しかし、『無欲の愛』は、必ず敵を創るというループは、未だに解けていません。



これこそ、最後の難問です。