音楽的メンタル
私の音楽精神論は『無関心』です。
音楽の表面的な評価は、極めて外向きのもので、悪く言えば『媚び』、良く言えば『パブリック』なものであって、音楽の実体そのものよりも過程の公開部分を賛否するものであって、私が目指す本質的な音楽の理想や指針とは相容れない訳です。
対に位置する私の音楽とは即ち、『髄』です。
音楽が染みるか、内容が染みるか、その違いです。
音楽の評価とは、他者一眼論なものであり、作者の目指す結果と聴き手の目指す結果は、基本的に刺し違えて対立するものです。
根本的な『音楽』とは、決して人に伝わるものではありません。
音楽が人に感情を伝えるのは、その『表現内容』であって、音楽の裸体ではありません。
本質的な裸体の音楽は、常に『表現内容』を具体的にするための道具の一環です。
逆はありえないのです、『表現内容』が音楽の裸体を具体的にするなんてことは、ナンセンスです。
では、『音楽』と『音』の違いは何か、
実は同じです。
音楽は音でも良いのです。
一般的な『音楽』とは、付加的ギャップ能力のある『音』であり、その付加要素は以下の通り。
- 公表された演者の存在
- 公表された作品の内容
- 聴き手の記憶
- 聴き手の主観
- タイミング
これらの要素は、本質的な『音楽』とは全く無関係です。
それらを音楽と関連させるのは『聴き手』であり、音楽的なクリエイターが気にするべきトコロではありません。
小手先とアクションは、鍛錬や高揚や羞恥心の克服で獲得出来るものですが、音楽の『髄』は、解釈として自分の最大のスキルとなるものです。
芸術家は、練習や公表よりも、考察や熟慮を重んじるべきなのです。
それが、私のごく個人的な音楽のメンタルです。