さきち



個人的には、そんなに興味あるコトではないです。


ただ、ハロコンでの思い出は結構あります。


そういった意味では感謝してます。


最後と判ってる現場があるので、参加する方はどうか見届けてあげて下さい。


色々あったとは思うし、多大なショックもあったハズです。


私は自ら進んでスマイレージの現場には『まだ』行かないですし、今まで進んで行ったコトが無いので、評価や批判は出来ません。






私はね、舞波の卒業に立ち会ってません。


この事自体は、実際にどうにもならなかった部分もあったし、尽すだけの手段は尽した結果行けなかったというのもあったけど、それでも自ら背負ったリスクは高かったと今も思ってます。


もし行ってたら、という想像は出来るだろうけど、実際行ってないから判らないんですよ。


やはり現場っていうのはそういうもん。


いくら映像技術が上がっても、現場を体感出来るのは『現場』だけです。


私が舞波の卒業公演の映像を未だに見られないのは、入って無いからです。


映像で観ても、何にもならない。


入ったコトにもならないし、その時間を体感することも叶わない。


『卒業公演に入らない』ってのは、そういう意味なんですよね。


絶対的に理解出来ない状態に陥るってコトなんですよ。


歴史の証人になるべき人、そうでない人、両方が大多数的に参加するのが、卒業公演です。


いかなる現場であれ、参加するかしないか、それは個人レベルの判断に任されますが、参加したからには、その結果体感した空間というものは、精神的安価に処理するべきでは無いと思います。


私は舞波の卒業公演には『入れなかった』というのは事実だけど、『入らなかった』というのが現実です。


本来なら『楽しむ』べきものが、ここまで『重い』ものになったのは、間違なく自爆の結果です。


ただ一つ、舞波の卒業公演に入らなかったコトで学んだのは、『備えは必須』てコトです。


そして、入らなかった以上、当時はその程度だった、というのが結論なんでしょう。


確かに私は当時ガチンコの舞波ヲタではなかったし、今だってそうです。


もし当時ガチンコの舞波ヲタだったとしたら、絶対にあの公演には入ってただろうし、舞波の写真だってコンプされてるでしょうし、あの公演を以てBerryz工房からは離れてたでしょう。


私が舞波の卒業公演に入らなかった結果、今現在残ったのは、Berryz工房が好きだという感情でしょうね。


これは財産です。


多分、あの公演にガチンコで入ってたら安売りしてしまってた財産です。


現場主体の動きの上で、正解というのは常に存在しない理由は、そこに論理的な判断基準が無いからでしょう。


判断の瞬間では正解か否かを頭で考えてるけど、その選択肢の判断部分を『未定』としておくコトが人間には可能です。





残りの時間と、その後続く『小川紗季』との時間というのは、個々の内面で勝手に作るものでしょう。


今も十分大事だが、結果の捉え方のほうが重要になると思うのだ。





私は、、、このまま進んで、たけちゃんがスマイレージに正式に加入したなら、その段階である程度スマイレージの現場には顔出すと思いますよw