私が演奏家を目指せない理由



私が唯一信じるのは、音楽です。


音楽が私を創り、私を育て、私を生かしてます。


ある一定の時期まで、私は演奏家として世に名を残すと信じていましたが、私には無理でした。


私の演奏の目的が大きく変わったのが理由です。


ライブをするとき、私が向く方向が完全に客ではなくなったと自覚した瞬間に、私の演奏が外向きに意味を持たないという結論に至りました。


私の演奏は、アンサンブルの共存状態に向いて音を出します。


要は、外向的演奏の意味は、あくまでもリアルタイムに音を構築する状態であって、それがライブだろうとスタジオでのセッションであろうと、根本的な部分で違いは無くなったのです。


こうなると、ライブへのモチベーションに客要素が無くなるので、演奏で外向きに何かを提供する事と、私の演奏に対する評価に接点が無くなります。


という訳で、演奏家として世に名を残すという事柄が意味を持たなくなってしまったので、私は演奏家にはなれない訳です。


実際、私は外向的演奏に対して緊張というのが無いのですよw


あくまでも音楽的緊張感は音楽の構築にあるものである、とまあこれが私の答えです。


なので、私が音楽で名を残すのであれば、作曲家や編曲家としてでしょう。


実際、作曲に困ったことは余りありません。


過去に組んでいたタングステンというバンドでも、殆ど全ての曲の作詞作曲をやっていましたし、自分の創ったデモからメンバーが選べる程度の曲数を仕上げるだけの作曲力はあります。


編曲はかなり難しさがありますが、数年前に携わらせてもらったシンガーソングライターの方の曲の編曲で大変勉強させて貰いました。


何より、私の所属する音楽結社『鉄柱』での作曲は20年間で把握出来ない数の曲を残しています。


演奏については普通ぐらいの自信しかありませんが、作曲については相当なキャリアがあります。


最近は、自分が演奏する目的ではない作曲が増えたため、演奏家を求めているような感じもあります。


音楽の姿は、商業意図を払拭すれば無制限に自由です。


評価は各々の聴き手の個人的なものとなります。


人生の構築で得た感性で選ぶのが音楽で、音楽が導き出すテンションに選ばれるのが人生です。


演奏は面白いものです。


しかしながら、演奏の中核にあるのは必ず『何らかのバックボーン』であり、その目的は何らかのアンサンブルです。


アンサンブルに対しては、個人や団体を問わず演奏家の為せる範囲は、それぞれの技量の範囲の誤差より内側のレベルです。


作曲は、根本的に演奏を前提としなくても良いものなので、実際は演奏より外側の誤差より更に外側の創作を可能にしています。


私が演奏より作曲に惹かれる理由です。





私は音楽によって生かされてます。


やはり、この事柄の答えは、音楽に対して真っ向から提出しなくちゃならんでしょう。


その流れはどうであれ。