ではBMK的に生誕ゴトに参ります。


あくまでもBMK的ですから、悶々と長文ですがご容赦下さい。




私はモーニング娘。Berryz工房が大好きです。


それぞれに全く違うベクトルを持っていて、自分の中では常にどちらも強いものです。


統計的に信念を語るのは全くナンセンスだし、主義ではないけど、私の性格に対して非常に周波数が合うのはやはり娘。ヲタだっていうのは疑いようのないトコロです。


嫌いという訳ではなく、そういう事実が統計的にあるっていうことなんですが、やはり多分Berryz工房に対する個人的レベルの方向性やらなんやらが他のBerryz工房のメンバーのファンの方々とは大きくズレてしまっているのは確かで、居場所的な面でも空気感でも違和感を感じないと言えばウソになります。


内面的にね。


全てがそうだ、という訳ではないし、身内のベリヲタが嫌いってことは絶対に無いし、個人的レベルではやはりみんな大事な仲間だと思っています。


楽しい思い出も多いし、多分ライブでの思い出は、リハビリ期間を除けば全て良い思い出だと思う。


連番がどうだ、とか、内容がどうだ、とか、そういうもんじゃなく、大事な時間と共有の関係なんだと思う。


だから余計に私はライブが大好きなんです。


私はライブ信者なのかもしれない。


だからなおさら、『劇ハロ』というものに大きな魅力を感じないのかも知れない。


『パフォーマンス』という括りで言えば同じなんだろうけど、恐らくにライブほどリアルタイム感を大きく感じられるものって無いと思ってます。


この秋、というか夏からこっち、娘。に邁進しているのは、娘。の現場にライブが多いからだと思います。


そして、Berryz工房に邁進していないのは、Berryz工房の現場にライブが少ないからだと思います。


私がBerryz宮殿を楽しいと感じたのは、ライブが好きだからだと思ってます。


多分もっと核の部分で『音楽』が好きなんだと思う。


今の自分が順位付けちゃうなら ライブ > ミュージカル(or イベント) > 劇  になっちゃう。


そして、里沙姫の生誕のライブに参加したときに感じた最も大きい気持ちは、『共有』でした。


私自身が人格を築いた時期に私の中心を覆ってたものは、『自己否定』っていう言葉で、世間より自分は常に下位だって思ってたし、その感覚は未だにどっかにあるし、それが全く関係のない部分で急に繋がってくることがたまにあって、その瞬間が、あの生誕の夜でした。


自分は大きなミスをしてるのかも知れない、でも、自分が尊敬し、敬愛し、大切であり、最愛と感じ、絶対に欠かせない人の誕生日に、その誕生日を祝うという行為に接してくれている人々に、なんて言えばいいか判らないくらいの感謝を感じました。


里沙姫の生誕のあの公演で、アンコールのとき、公演のおしまいのあと、私は確かに泣いてました。


それは里沙姫があれだけ泣いていたというのも理由してますが、それと同じくらい、『共有』っていう感情が心を満たしていたのが理由でした。


余りにも暖かかったし、心に深ーく突き刺さるものもありました。


そして、その瞬間に決めたことがあって、それは、娘。メンバーの生誕公演には絶対入って、その公演を祝福したい、共有したい、という気持ちでした。


里沙姫の生誕のときに緑色のサイリウムを掲げてくれたれいなヲタの方々が居て、そして新垣さんのファンの私がそこに居たということは、つまり、れいなの生誕のときに私がそこでれいなの生誕を祝福するのは、大きな共有だと、そう思いました。


故に、そこに行かない理由がなくなり、行くことにしました。



れいなは、非常に素直なんだと思った。


素直で、頑固で、本音で、不器用で、幸せもん。


夜公演のあと、れいなの挨拶、あの長い時間、れいなの言葉、『お別れしたくない』『6年後?!!』『絶対に忘れん』ステージと客席に全く壁は無く、私はやはり暖かいものとか熱いものを感じました。


会場ロビーでの盛大なヲタ挙動、その全てを含めても、やはりあれだけ共有な感覚を持てた、というのは、本当に大事な宝となりました。


来年のツアーで誰かの生誕公演があったら、やっぱり行こうと思います。


海外とか不条理地区じゃない限りはw








これで全部、以上、おし舞波