まーちゃん卒業発表。
本日は仙台に推しを愛でに行くのですが、その前にまーちゃんの卒業発表について私の御意見を賜らせておきます。
まーちゃんが娘。に入ったと発表されたとき、その瞬間その場所に私は居ることが出来ました。
あの頃のまーちゃんは新垣さんをリスペクトする久々の北海道出身の娘。メンバーでした。
時期的には大幅に秋ツアーの期間にツアーが無くて、結局まーちゃんがどんなもんなのかについて深く知り始めたのは翌年の春ツアーで、このツアーで新垣さんは卒業、私は本格的にえりぽんを推すことになりました。
まーちゃんが数多くの語録と奇行を繰り出すうちに、とにかくこの人は面白いぞと、そう思いました。
で、まぁ世間的にはまーどぅ無双となるんですが、私の中点はえりぽんであったので個人的にそれは影響せず、ただ公演を重ねる度に音楽に接するその姿勢と感性の増幅具合に圧倒されてきました。
ただ、私の意見ですが、特に歌が上手いって訳ではなく、どちらかと言うとその、音楽に絡み付く方法を模索し続けてるように見えました。
だからこそ瞬間的にピークに達する瞬間があって、それが癖になってました。まーちゃんに関しては。
でも、私の中でのまーちゃんの印象は、ムードメーカーであり、ネーマーです。
娘。は卒業によって飛躍的に強くなるハコです。
だからもちろんこの卒業も大幅に良い方向性をもたらします。
ただ、今回のこの卒業公演に現場で参加できる気がしません。
もし現場で参加できるなら、それはただの奇跡でしょう。
通常のツアーであればそんなに不安じゃないけど、今回はもう卒業を現場で見送れないであろう事が不安であり残念です。
私の中では、娘。のメンバーの誰であっても決して軽んじられず重んじられるものです。
どのメンバーの卒業も同じ重さです。
この考えに私が至ったのは、ライサバの時です。
あの時の卒業メンバーが3名であった事は特異でありながら忘れられがちです。
私はプラチナ期を参加で支えたことを自ら誇りとし負責としております。
だから、私にとってあの日の卒業公演は3名の卒業公演でした。
あの3名の卒業の意味については重みに差は無いんです。
当然、その後訪れた新垣さんの卒業についても、私の中での重みは同じでした。
私にとってメンバーの卒業を見送る行為は、娘。に在籍してくれたメンバーの尊い時間に対する敬意であり、賛辞であり、感謝です。
悲しみを湛えた行為ではありません。
その行為の結末が無限の虜である事は私が自分で負わせたのでよく分かってますし、ハコに対する不敬にもなります。
私にとって娘。とは、私の卑しく無価値でふざけたクソのような状態だった命を救ってくれた存在です。
人生観に大きな変化を与えた存在の1つです。
それはもちろんメンバーが創造してたものではないし、それは殆んど今も同じですが、あのハコが私に与えてくれた慈悲は、最終的にメンバーによりアウトプットされます。
その、謂わば矢面で闘う事を選んでるメンバーに、どうやって悪しき感情を抱けるでしょうかと、それが私の娘。です。
その娘。から出て、どのような道に進んで行くのか、というのは、実は私自身には余り意味が無いんです。
私の最大の推しは娘。そのものですから。
ただ、娘。を構築し、バカ力で押し上げてきてくれたメンバーの卒業そのものは、やはり巨大で荘厳なイベントです。
まーちゃんの卒業は、想定出来るあらゆる次元は越えてくるでしょうし、その後の娘。にも大きな影響力を与えます。
私はもちろん、その後の娘。を支えます。
めいちゃんを中心として。
えりぽんを拠り所にしながら。