龍馬さん。。。
豪快に斬られてしまいました。。。
斬られた史実があるにも関わらず、やっぱりいざ斬られるっていうシーンになると、たまんねぇかったや。。。
弥太郎が近江屋前で泣き崩れるシーンとか、歴史上は絶対にありえないコトなんだけど、うまいこと持っていかれました、私。
どう考えてもやっぱり残念な暗殺のうちの一つです。
いち早く京都を離れるという判断が出来なかったコトこそ、龍馬最大の失敗だったのかな、と思います。
確かに、龍馬が生きていたら、歴史は変わったでしょう。
でも、龍馬に参政の意思が無かったあたりからも、日本の歴史上、大政奉還以降の政治歴史に関わったかどうかってトコロになると、それは確かに無かったのかな、とは思います。
大政奉還が成ったと同時に、グラバーの手引きでさっさと海外に出るトコロまで段取りして、その後のコトについて任せられると思う人に、もっと早い段階で全てを託せるような準備をしておくべきだったとも思います。
危険を承知で龍馬を京都に残した、というか、無理やりでも土佐に連れて帰ろうとはしなかった後藤象二郎も、恐らくは後に後悔はしたんでしょうね、、、
まあ、妄想でしかありませんw
ユージュアル・サスペクツのカイザー・ソゼみたく、煙みたいにフッと消えて誰も探せなくなる、っていう感じになってくれてたら、と私は思っています。
時代は繰り返してます。
とにかく、国政っていうモノの見方については、参政の方々は是非とも再度心に問うて頂きたい。
本当に政治を動かすのに必要なものが金なのかどうか。
国民のだらしなさを正せる政治とは一体どんな姿なのか。
法治国家という名の下で、絶対権力の勢いの風下で、考える力そのものを抑えつけてはいないだろうか。
今の日本の国内動向の歪みは、残念ながら殆どが『倫理の崩壊』によって起こっています。
龍馬さんをはじめとする、『志』っていうモノの活動力を持った『非参政』の人々の努力、多大な血肉の損、悲しみや恨みの中であろうと、進むことを止めなかった人達の必死な状態を、ただ『波風を立てないで』という自己防衛的な流れから出る思想の膨張で育てた『常識』ってもんで覆して、本当に良いんだろうか。
どうか、人間なら問うてみる価値はあるコトだから、考えてもらいたい。
都合や多勢論で簡単に変わる『常識』と、未来永劫一切の曇りも無く存在する、人間故に持つことを許されているハズの『倫理』と、さて、どっちが本音で大切かってコトを。
私一人が『倫理の勝ちじゃい!お前らは降伏せい!』と叫んでも、そりゃあ世の中が変化するなんて一切思えません。
ですがね、だからって『常識には勝てません故、腹を斬るっちゃー☆』なーんてコトにも絶対ならんでしょう。
黙ってただ自分の中で『倫理サイコー、パパンパパンパン♪』ってゆってても仕方ありません。
みんな絶対に持ってるもんだろ?倫理くらいは。
常識なんざーぁ何の役にも立たないって言うのは確かに恐ろしいけどさ、怖くてしょうがないけどさ、しかし、それは事実だよね。
でも、一つだけ、私が倫理を翳して勝てる方法があるんです。
それは、『ひたすら少数派でいること』なんです。
多勢っていうのは、量が増えるとどうしても力を誇示しちゃう。
それが、スタート地点が倫理運動であろうと、です。
多勢の敵は、得てして少数です。
少数の敵は、つまりは無限大の膨大さだってコトですよね。
まるで持論を覆すようだけど、『倫理』を翳す行為で勝利する方法は、ひたすら負けるコトなんだと思うのです。
倫理的に最大限に達した人は、常識的に抹殺の対象です。
少数派の意見を、多勢が無視するのも、最大火力で攻撃してくるのも、常日頃ある出来事ではあります。
それは決して普通ではないけど、いちいち耐える信念ってのは、持ってなきゃダメかなって思いはあります。
多勢に対して『あ、今折れちったw』て思う瞬間が、あればあるほど、『あ、また俺の遺伝子が腐っていってるわorz』って気分に、最近よく成ります。
『多勢には巻かれるな。
挑むことは止めるな。
ひたすら負けていろ。
信念を変えるときは以前の人生は捨てろ。』
私の信念箇条です。
幕末のとんでもない世の中で、悲惨な出来事がいっぱいありました。
龍馬さんの暗殺って、その1つにしか過ぎないんです。
本当にとんでもない人数が、暗殺されました。
幕臣から浪人まで、多数の人がね。
時代が時代ではあった、確かにそうだけど、今だってそれは同じ。
ただ、行為の方法が違ってるダケです。
とにかく、とにかくだよ、『楽』と『幸福』がイコールじゃないってコトだけは確かだ。
平和ボケ日本国ではあるけど、それが悪いとは思えません。
日本において、貧富・上下の配分がブラックボックス化されて見えにくいっていうコトが問題なんです。
日本人それぞれが、もし国民だとすれば、判断や決定の前に、もう一度よく考える行為を挟み込むことを是非とも薦めます。
その考えによって導き出されるアンサーが、自己防衛や個人利益のみの追求とならないように注意することは大前提です。
自分への優しさは決して、他人への不幸丸投げであってはならんという心を持って、生きるべきと、私は思ってます。
あと、これは完全に私自身のスタンスだけど、『自分という存在に固執しない』という思想を持ってると、意図する行為のバックグラウンドを詮索されても、何ら恥ず部分や要素は見当たらないと思ってるので、そうしようと努力して、グングンと長生きしたいなーって思ってます。
ただ、戦わないといかんときは、正面から戦います。
セコいマネだけはすんな、と自分に言い聞かせて、これもまた努力してます。
全部は完璧に出来やしません。
でも、そういった倫理に対する理想を追求すると、心には優しさが存在するような気はしてます。
悪意への敵意は、残念な悪意しか生まないし、返ってくるのもまた敵意です。
最大理想ではあるけど、それを目指すコトは決して愚かな行為ではないと、まぁ私は信じてるw
悲しいドラマだったけど、龍馬さんの死に至るまでの道程を新たな視点で1年間観て、やっぱり少数派最高だなって思いましたw
さて、来年の大河は、ちょっと観るかどうか悩んでます。
天地人と時代がダダ被りだし、人物の角度も余り変わらなそうだし、とりあえず1回目を観てから判断したいです。
関ケ原近辺の歴史は、好きだけど得意じゃないからさw