地震の結果



救助等が動き出し、原発が致命的になり、そして、おびただしい再会と別れが訪れてくる事でしょう。


地震というのは、日本に住んでる以上、避けられない自然です。


私に出来る事は、正直なところ、私の感覚だと、『出来事についてよく考える事』ぐらいです。





人間という生き物は、『自我』の存在感によって感情を操る生物で、地球では唯一の存在です。


ただし、全てのレベルで至高の生物ではありません、むしろ、生命力と脆さのレベルで言うなら、極めて低いと言わなければならないでしょう。


人間の死因は、自然な理由によるものが多いです、寿命、病気、不慮の事故などがその範囲ですが、不自然な理由がある場合があります。


その理由は全て、自我故の『考える力』によって創られたものですが、逆に、『生きてる』っていうコトについて、不自然な理由というのを見出だす人は余り居ないと思います。


今回、そして、先日のNZの地震で亡くなった方々は、その殆どが『自然な理由』で亡くなっておられます、それはつまり、故意のものや、誰かの意思で亡くなっているのではなく、想定外の自然の力によって、生きてられない状況になった、というコトです。


津波で流されて、家族を失いながらも生き延びた方は、その殆どが恐らく、しがみつく何かがあったか、常識的ではない奇跡に救われたか、そのどちらかだと思います。


その場面で生死を分け隔てたのは、決して努力の有無ではなかったでしょう。


全ての方々が、必死でもがいたハズです、諦めた方なんて居ないハズだから、その結果は、重い『不条理』でもある訳です。


不条理感は常に、人の感情によって生まれます。


故に、この災害で最大の不条理は、震災以降日本で起きている『資本主義的行動』だと思っています。


被災地と非被災地を比較するのは、余りにナンセンスだと思うので、私はしません。


ですが、被災地と非被災地の温度差というのは、もっと意識するべきだと思います、


何が言いたいかというと、これは私が阪神淡路の際に感じてた事ですが、私の住んでた地域で、震災で直接亡くなった方は居ませんでしたが、震災のあった日の昼頃、学校から神戸側の空を見るとグレーに覆われていて、情報が殆ど無くて、学校が終わって自宅に帰り、報道に触れ、昼頃見たグレーは、火災の煙だったって知り、死者が毎分増えて、翌日はずっと神戸の空を眺めてた。


地震のせいで、僅か100キロくらいの所で、毎分凄い人数が遺体となって発見されてる。


対岸の同級生は、もう学校も家も、場合によっては家族も居ないかも知れない。


私の住む地域自体は、壊滅的ではなかったけど、心は遥かに壊滅的だったんだ。


被災地の見える範囲って、そんな状態だったんです。


何が出来るか、とかもちろんあったけど、対岸のグレーが、こっち側だった可能性もあった訳で、正直なところ、自分の無力具合に歯痒さを感じるだけの隙間も無かったのですよね。


テレビを通して見える惨劇を見て感じる衝撃と、自分の目で見る惨劇の衝撃は、ベクトルが違い過ぎるんでしょうね。


今回の震災で起きた惨劇は、メディアの皆々様の献身的な報道のお陰様で、ごく一部は知るコトが出来ましたが、どうか、メディアを通して感じてるその感覚を、100万倍にして内側で秘めたものが、被災地の方々の記憶に刻まれている事を、忘れないで下さい。


今更、私達に出来るコトは、ひたすらに現場の現状に対して『深い理解』を示すことぐらいです。


その理解無くしては、何をやっても通じ合えないと、私は思います。







被災地の皆々様、生きてる方々も、亡くなった方々も、その生き様が、私達の生涯の宝になるように、そして、皆々様の苦痛が、いつかしっかりと皆々様の心の糧となり、支えとなる日に向かって行けるように、どうか、私達を叱って下さい。


そして、私達が、皆々様を必要としているコトを、理解して下さい。