議論。

私の基本的な生き方なのですが、どんな物事であろうと、尽くされるべき議論があるという考え方を中心にして生きています。

 

議論の目的は何なのか。

それはつまり、意見の相違が創った相互のギャップを理解して折衷する事です。

議論のコアに於いて私自身は双方どちらのサイドにも偏らない努力をします、そのコアに自分が居る場合であれ、俯瞰の姿勢は議論を平らに理解する重要な姿勢です。

この姿勢の本質は、俯瞰作業によって自分のサイドが否定された時に、積極的に自分の意見を否定出来るだけの覚悟があるかどうか、という点です。

議論の目的が喧嘩でないのであれば、議論とはとてつもなく結果に肉薄するし、結論も導き出すのが容易になります。

そして、議論を高い水準で成功させるためには、芯の更に奥にある心情や思想を吐露する事が必要であり、これが議論というものを難しくしている根源でもあります。

更に、議論に於いて最も重要なのは、発言の源を議論の場に明確に公表する事です。

つまり、誰が言ってる事なのか、これが明確になる事が重要なのです。

ここまで読めば自ずと明白であるのが、議論が匿名性のあるネットの上で存在し得ないという事です。

当然、ネットの上であれ、議論している当人同士が公表された状態であれば議論は成立するのですが、議論する人間が公表されない匿名性の強い場所に於いては議論とは信憑性の無い事柄となり、結果的にはその結論について肯定する側であれ否定する側であれ、その存在が匿名であれば議論自体が無効になり、意味を成さなくなるのです。

議論とは、リスクを承認する事であり、リスクを理解する事です。

リスクの無い議論は議論になる前に喧嘩になる。

つまり、どっちのサイドを支持するかを集計する行為であり、結果的には結論を支持する者とそうでない者が存在したままになり、この議論は永久に終わらなくなる。

 

日本の国会を見て悲しくなるのは、国民が選んだであろう国会議員であれ、決議の場面では政党の柵により議論を差し置いて結論を優先しなければならなくなる事であり、これは民主主義の最大の欠点である多数決理論の顛末であります。

多数決とは、敗者側の意見に蓋をする行為であり、議論が尽くされずとも結論を出すための行為です。

組織的に強いものには勝てない仕組みがそこにあるので、民主主義とはつまり弱者排除論とも言えます。

たとえ思想の始点が弱者であったとしても、最終的に多数が支持する思想となった時には逆転したマイノリティを排除する訳で、新たな弱者を創出しただけになります。

特にネット社会というのはマイノリティに対する議論はさておき思想を強要しがちです。

私自身もネットを利用するのですが、ネットに於ける重心の存在しない議論に関与したいと思った事がありません。

正義と悪魔しか無いんです。

つまり、自分の主張を曲げない事を美徳とし、それに対して協賛しない意見はつまり敵であるとする風潮が強く、全く議論になってるのを見たことがありません。

テレビの中の出来事に愚痴を飛ばす行為と同じく、その意見には意味も動議も無い。

トレードオフをしない、とにかく『私はこうである』としたらそれを曲げない。

私はハッキリとそういう行為を愚かであると断言します。

批判は議論の敷居を跨げない。

何故なら、議論とは批判ではなく許容だからです。

許容を否定するのであれば、当然議論に到達しません。

『アイツは嫌いだ』という意見があったとして、その意見について『その理由』を明確にした時、その提示された理由に対して『その理由は生理的に受け付けない』とするのがつまり『否定』です。

私の嫌いな心理が二つあり、それは『可哀想』と『生理的に受け付けない』です。

どちらも投げ槍で受容を含まないからです。

つまり、どちらも否定としては同義である訳です。

そこを結論とするから否定であるという訳です。

議論とは、『可哀想』や『生理的に受け付けない』の理由について考察する事であり、『可哀想ではない』や『生理的に受け付ける』との歩み寄りを試みる行為です。

そして、議論したというその行為で満足を得るための行為ではありません。

議論によって双方の意見の相違を折衷出来ない限り、議論は終えられないからです。

議論は決して快い行為ではない。

高い不快感や恐怖や疎外感や自己防衛欲や自己顕示欲や保守欲と言ったものを感じながら、そういったものを否定しなければならないので、体力も精神力も消耗しなければなりません。

しかし、議論は必ずそのテーマについて答えを出すためには必要であり、避けるべきではありません。

それが私の生き方です。

 

議論の死んだ社会で、私の生き方は議論です。